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2020.11.03 Tuesday

宇多源氏の祖・宇多天皇

宇多源氏の祖・宇多天皇(貞観九年867−承平元年931)

粕谷要道 

 

 平安時代は都が平安京に定められた延暦 13年 (794) から源頼朝が鎌倉に幕府を開くまでの約 400年間で前期、中期、後期の3期に分けられ、前期は奈良時代に完成した律令制度を維持しようとした時期,律令についての施行細則である式が編纂され,その代表的なものが延長5年 (927)に完成した『延喜式』で、後世,「延喜・天暦の治」と称される醍醐,村上の両天皇の治世がこの期の最後であった。中期は,藤原氏が摂関政治を行なった時期で、娘を後宮に入れて皇室と外戚関係を結び,他氏を排斥し,一家の繁栄をはかった。後期は上皇(→太上天皇)法皇による院政の時代であった。経済の面からは律令に基づく班田制がくずれ、荘園制度に移行する時期で,中期の摂関政治,後期の院政はこの荘園制を基盤として成立していたといわれる。
 59代宇多天皇(うだてんのう)は後の佐々木氏などに代表される宇多源氏の祖先にあたる天皇である。

 

主な略歴;
生没年;貞観9年(867)〜承平元年(931)
緯は定省(さだみ)。 父;光孝天皇 母;班子女王(はんしじょおう)
子女;醍醐天皇、敦実親王
女御;藤原温子、藤原胤子、橘義子、橘房子、菅原衍子(えんし)
光孝天皇の第七皇子で、母は皇太后斑子(はんし)女王(桓武天皇の皇子仲野親王の娘)であった。


 父帝光孝は、先代陽成天皇の大叔父にあたり、陽成が不祥事によって退位させられたために即位に至ったことから、自身の後は陽成の同母弟貞保親王など嫡流に皇位が戻ることを考え、元慶8年(884年)6月に26人の皇子皇女に源性を賜い臣籍降下させた。定省王(さだみおう)もその一人であり、源定省(みなもと の さだみ)と称した。定省が陽成に王侍従として仕えていた時、殿上の間の御椅子で在原業平(平城天皇の孫・在原朝臣五男825∼880)と相撲をとり二人の体が椅子にぶつかって手すりが折れたなどの逸話が残っている。また、紫式部の『源氏物語』光源氏の実在モデルの有力候補である嵯峨源氏融流れの源融(みなもとおる822∼895)は在原業平一門の歌人でもあり、現代の研究では源融を中心とした歌人仲間の伊勢大輔(989?〜1060?)や紀貫之(866?〜 945?)が『伊勢物語』の作者ではないかとみられている。
 東下り途上にある男(主人公)の一行は武蔵国と下総国の間を流れる隅田川を舟で渡る。果てしなく遠くまで来たものだと皆が心細さを感じつつ都を恋しく思っていると、鴨ほどの大きさの鳥が水面を気ままに泳ぎながら魚を獲っているのが見える。都では見ない鳥なので船頭にその名を聞いてみると、「都鳥(みやこどりーユリカモメ)」だという。そこで男は次のように詠んだ。

 

 名にしおはは いさこととはむ みやことり わかおもふ人は ありやなしやと(在原業平)
 

 都鳥というなら、名の通り都の事情には詳しいはずだから「無事なのかどうか?」都に残してきたひとの消息をぜひ尋ねたいものだ(現代語−口語例)
 

 名にし負はば いざ言(こと)問はむ 都鳥(みやこどり) 我が思ふ人は 有りや無しやと(書き下し文)

 

 


伊勢物語画像より


 光孝は皇太子を立てることのないまま、即位から3年後の仁和3年(887年)に重態に陥った。関白藤原基経は、天皇の内意が貞保親王ではなく源定省にあるとした。貞保は皇統の嫡流に近く、また基経にとっても甥ではあったが、その母藤原高子は基経とは同母兄妹ながら不仲という事情もあったため忌避された。基経自身は特に定省を気に入っていたわけではなく、定省は基経の仲の良い異母妹藤原淑子の猶子で、天皇に近侍する尚侍(ないしのかみ)として後宮に強い影響力を持つ淑子が熱心に推したこともあり、朝議は決した。同母兄の源是忠を差し置いて弟の定省が皇位を継ぐことには差し障りもあったため、基経以下の群臣の上表による推薦を天皇が受け入れて皇太子に立てる形が取られた。定省は8月25日に皇族に復帰して親王宣を受け、翌26日に立太子したが、その日のうちに光孝が崩じたため践祚(せんそ)し11月17日に即位した。
 宇多天皇は即位後間もない11月21日に、藤原基経(836∼891)に再び関白としての役割を果たすよう勅書を送った。しかしこの手続きの際の左大臣弁橘広相の起草した「宜しく阿衡(あこう)の任をもって卿の任とせよ」の文言に基経が立腹し、政務を拒んで自邸に引き籠もってしまう。翌年6月になって宇多はついに折れ、勅書を取り消した上に広相を解官せざるを得なかった。寛平3年(891年)1月に基経が死去するに及んで、宇多天皇はようやく親政を開始することができた。なお宇多天皇が勅願寺として仁和寺を建立したのは、この阿衡事件の最中の仁和4年であった。
 宇多天皇は基経の嫡子時平を参議にする一方で、源能有(よしあり文徳源氏、清和天皇の異母兄)など源氏や菅原道真、藤原保則といった藤原北家嫡流から離れた人物も抜擢した。
 この期間には遣唐使の停止、諸国への問民苦使の派遣、昇殿制の開始、日本三大実録・類聚国史の編纂、官庁の統廃合などが行われた。
 薬子の変(やくしのへん)を契機に寛平年間にはかつての近衛府に代わって蔵人所が内裏の警護にあたり、清涼殿庭の東庭滝口に武者が配置され、貞元2年には滝口の武者が宮中に弓箭を帯びての出入りが許され、朝廷に公式に武士が認められるところとなった。人数ははじめ10名より、平安末期には30名が天皇即位に際し摂関家や公家の家人(侍)から六位の六衛府の武官として任命されるようになった。としている。
 「仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ云々、、(第52段)」とある『徒然草』の著者,兼好法師について、東福寺書記であった臨済宗歌僧、清巖正徹(1381∼1459室町中期)は著書『正徹物語』で兼好法師は生没年、出自、生国ともに不詳であるが、出家前の姿として滝口の武者で、交流のあった鎌倉殿執権北条貞顕の被官であった。と論じている。
 2,000年代に入って、戦国時代の神道家吉田兼倶以前に出家前の姓名をト部兼好(うらべかねよし)、以後吉田姓を称したとの説を述べる者はなく、従来の出自が神祇官一族とする説は同名別人として、兼好法師の出自、生国、生没年とも未だ不詳だとする研究が有力である。
 文化面では寛平御事菊合や寛平御時后宮歌合などを行い、これらが多くの歌人を生み出す契機となった。
 寛平9年7月3日(897年8月4日)に突然皇太子敦仁親王を元服させ、即日譲位し、太上天皇となる。
 この突然の譲位は、かつては仏道修行に専心するためと考えるのが主流だったが、近年では藤原氏からの政治的自由を確保するために行った、あるいは前の皇統に連なる皇族から皇位継承の要求が出る前に実子に譲位して自己の皇統の正統性を示したとも考えられている。譲位にあたって書かれた『寛平後遺誡』には右大臣源能有(みなもとのよしあり・清和天皇の異母兄。寛平の治を進めた)の死に強い衝撃を受けたことが書かれており、これを譲位と結びつける見方もある。
 新たに即位した醍醐は自らの同母妹為子内親王を正妃に立て、藤原北家嫡流が外戚となることを防ごうとした。また譲位直前の序目で菅原道真を権代納言に任じ、大納言で太政官最上席だった時平の次席としたうえで、時平と道真の双方に内覧を命じ、朝政を二人で牽引するよう命じた。この人事は権門の公家には不評で、公卿が職務を拒むという事件に発展し、道真は宇多天皇に願って公卿らに出仕を命じてもらい、新政がスタートした。
 宇多天皇は譲位後も道真の後ろ盾となり、時平の独走を防ごうとしていたが、一方で仏道修行に熱中し始めた。昌泰(しょうたい)2年(899年)10月24日に出家し、東寺で受戒した後、仁和寺に入って法皇となった。さらに高野山、比叡山、熊野三山にしばしば参詣し、道真の援助を十分に行えなくなった。
 昌泰4年(901年)正月、道真は宇多の子で自らの婿でもある済世親王を皇位に即けようとしていたとの嫌疑で、大宰府へ左遷された。この知らせを受けた宇多は急遽内裏に向かったが、宮門は固く閉ざされ、その中で道真の処分は決定してしまった。史学者は、宇多天皇は自己の皇統の安定のために醍醐の皇太子決定を急ぎ、結果的に当時男子のいなかった醍醐の後継をその弟から出すことを考えるようになった。醍醐が許した基経の娘・藤原穏子(おんし・やすこ・後の村上天皇の母)の入内にも反対したために、これに反発した醍醐が時平と図って法皇の代弁者とみなされた道真を失脚させたという説を提示している。しかし晩年には病気がちの醍醐天皇に代わって、法皇が実際の政務をみていた可能性もあると考えられている。
 延喜元年(昌泰4年を改元)12月13日、東寺で伝法灌頂を受けて、真言宗の阿闍梨となった。さらに弟子の僧侶を取って自ら灌頂を授ける資格を得て、弟子になった僧侶は朝廷の法会に参加し、天台宗に比べて希薄であった真言宗と朝廷との関係強化や地位の向上に資したため、真言宗の発言力は高まり宇多太上法皇の朝廷への影響力を回復させることになったとされる。延喜21年(921年)10月、醍醐帝から真言宗を開いた空海(774∼835)に「弘法大師」の諡号が贈られるが、醍醐帝の勅には宇多太上法皇が空海を追憶している事が理由にあげられている。
 延喜13年3月13日(913年4月22日)に後院の亭子院で国風文化盛行を示す大掛かりな「亭子院歌合」を開いた。また延喜11年(911年)6月15日、亭子院の水閣を開いた際、臣から酒豪を選んで宴に招き、酒を賜り酒量を競わせる亭子院酒合戦を開いた。
 陽成上皇との関係は微妙だったようで、宇多天皇が皇位に即く前に侍従として陽成天皇の側(そば)に仕えており、神社行幸の際には舞を命じられたこともあった。『大鏡』には、陽成が宇多のことを、「あれはかつて私に仕えていた者ではないか」と言ったという逸話が残っているが、陽成が復位を画策しているという風説が宇多天皇を悩ませた。
 保延年間に書かれた『長秋記』(保延元年6月7日条)によれば、陽成上皇が宇多天皇の内裏に勝手に押し入ろうとしたために、上皇といえども勅許なく内裏に入る事は罷(まか)りならないと退けたが、後に昌泰の変が起きた際には醍醐天皇に菅原道真の左遷を止めさせようとして内裏に入ろうとした宇多上皇自身がこの先例を盾に阻まれたという記載がある。
 ただし、宇多上皇が内裏に入るのを拒まれたのは、薬子の変の教訓から成立した原則によるもので、陽成・宇多両上皇のケースはこの原則に基づいたものとする説もある。
 承平元年7月19日(931年9月3日)に崩御。宝算65。日記に『宇多天皇御紀』がある。



宇多法皇像(仁和寺蔵・15世紀}と仁和寺の紅葉(Ninnaji-temple in autumn leaves, Kyoto より) 


 袈裟に横被を着け、右手に倶利伽羅龍剣・左手に数珠を持ち、法被(はっぴ)、を掛けた椅子に座す姿で、前に沓を載せた踏台と水瓶が置かれている。画面上部の左右にある色紙形には、『後拾遺和歌集』に収められた天皇の和歌「みやのたき むへもなにおひて きこえけり おつるしらあはの たまとひゝけは」が記されている。(2000年、奈良県立美術館編集・発行 『特別展「室町時代の肖像画」』より)。
 

参考文献;角田文衛「「尚侍藤原淑子」、中野渡俊治「古代日本における公卿上表と皇位」『古代太上天皇の研究』(思文閣出版、2017年)河内洋輔『古代政治史における天皇制の論理』。
駒井匠「宇多法皇考」根本誠二 他編『奈良平安時代の〈知〉の相関』(岩田書院、2015年)。
小川剛生「卜部兼好伝批判−兼好法師」から「吉田兼好」へ国語国文学研究49号(熊本大学文学部、2014年)
川平敏文「兼好法師の虚像、偽伝の近代史」(平凡社選書)ほか。

 

 

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